神社参拝録
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はじめに
  参拝礼儀  Precious Memories
  神様紹介

はじめに
■挨拶


神社に参拝することは、比較的年配の方に好まれます。
逆に、若者の社寺への関心はかなり薄いです。
私はまだ二十歳の若輩者ですが、同級生の友人と京都旅行に行く時にこう言われました。
「若者が社寺巡りとかねーよwUSJ行こうぜ」
神社と寺の違いも分かってないことが多いし、初詣もよくわからないけどイベントだから行くという感じです。
教わる機会がないのですから、知らなくても仕方ない思います。
ただ、今の若者が年を取っていくにつれ、社寺への関心がでてくるものなのでしょうか。

私のゼミの先生が言うことなのですが、年代を超えた交流が失われてしまっていると思います。
TVでおしんという番組がやっていたころは、学生や教師皆がその時間になるとTVの前に集まって一緒に楽しみ、語らったそうです。

時代は個別化に進み、好みが細分化されてきています。
個人の楽しみを追うことは非常によいことだと思います。
他人に迎合せず、自分がすばらしいと思うものを信じる。
かくありたいと思います。
でも、ジェネレーションギャップというように、年齢間の壁が大きくなって交流することすらままなくなっていることも事実です。


「一体感が失われた」と先生は言います。
私には、皆が同じ神様に願いを口にする神社という場が、あらゆる垣根を超えた交流の場となりうる気がするのです。


'人と人を繋ぐ'というコンセプトで、年配の方はもちろん、若い人にも神社に関心を持ってもらえるようなホームページ作りを考えていこうと思っています。なにぶん未熟な身ですので、到らない点、拙い誤りが発覚した際には、トップページのメールフォームにてご連絡ください。


サイト名:ユビキタス・ジパングについて

ユビキタス社会とは、「いつでもどこでもコンピューティング」というイメージで表わされるように、情報端末を時・場所を選ばずに使える社会のことを言います。
最近は特に情報端末のモバイル化が進み、よりユビキタス社会に近づいています。あるいはもうそういう社会になっていると言ってもいいのかもしれません。


ユビキタスの語源はユダヤ語の
ubiquitous、「神は遍在する」という意味です
ユダヤ教は一神教ですので、唯一にして絶対の存在である創造主は、いつでも人々を見守っているというニュアンスになります。
でも、「神は遍在する」という言葉を聞いてこう思う人も多いのではないでしょうか。
「あ、八百万の神だ」


神道、というか古来から日本人は、自然を中心にあらゆるモノの素晴らしい力を感じて生きてきました。
いつしかその力を自分たちの上の存在、カミとして祀るようになりました。
人がすごいと思うモノを褒めること、その力に憧れること。今でも皆が自然に行うことです。
日本の神様を祀るのは、上杉謙信や織田信長などの歴史上の人物、身近な先生や両親、輝かしいタレント、二次元のキャラクターに憧れを抱き、親しみを持つのと近いものだと私は思っています。そこにすごいと感じるものがあったのなら、愛着・好意を持つのに理由は必要ないはずです。
あらゆるモノの凄さを見つめ、素直に褒め讃えるような古来からの日本の考え方、私たちの思う数だけいたるところに存在する「八百万の神」が、今もこれからも日本と共にあってほしいという願いを込めて、このホームページを
ユビキタス・ジパングと名付けました。


ちなみにジパングとは、マルコポーロが日本を黄金の国と称したときに使われた言葉で、私の中ではジパング→ドラクエ3と変換されます。
ドラクエ3には「やまたのおろち」や「くさなぎのつるぎ」といった神話の物語も登場するので、そういう微妙な繋がりでジパングを採用しました。

振り返ってみればこれが私にとって生まれて初めての神話体験なのです(笑)


日本の神様とは

日本の神様は八百万の神と呼ばれます。
日本人は、「すごい!」と感じるあらゆるモノの中に神様を見てきました。
例えば太陽。あのあたたかさ、眩しさ、手に届かない高さ。
作物を育ててくれるありがたい恩恵に、人々はどうしようもないチカラの存在を感じたのでしょう。
また、恐怖を抱く存在を崇めることもあります。
例えば菅原道真公。大宰府に左遷された道真の死後、次々と都に起こる災いを人々は道真の怨霊のせいだと考え、その怒りを鎮めようと神として崇めました。今よりもずっと鬼や妖怪、怨霊をを身近に感じていた当時において、道真の恐ろしさは計り知れないものだったでしょう。
今では恐怖の対象としての神という性質はかなり薄くなり、彼の生前の学問・書道の才能は多くの人々に讃えられています。それでもなお、天神様のお怒りという捉え方は残っており、昔の人々が抱いた畏れは細々と受け継がれているのです。


「すごい!」と思うモノの凄さを自分の中に取り込んで、さらに成長していこうとしていく欲求、自己拡大の欲求が人には備わっているのだと私は思います。
偉大なモノ、大きいモノ、力強いモノ、美しいモノ、恐ろしいモノ。そういうモノを神として敬い、畏れながら自分の願いを重ねることで、人々は明日を生きる力を得たり、恐怖を乗り越えたりしてきたのだと思います。



神社にお参りするということ

神社には神様が祀られています。
私はそこで、自分の願いをまず考えます。
今、自分が叶えたいこと、守りたいこととはいったい何か。
そして、神様と自分に向かって心の中で願いを唱えます。
その願いを、神様の力を少し借りて、自分自身の意志で叶えていこうと心に刻むのです。


例えば、神様の御利益が家内安全であるならば、私の家族が健康で楽しく幸せに暮らしていけますようにという自分の願いを見つめ、商売繁盛ならば、将来働く機会をいただき毎日楽しく暮らしていけるだけの給金を戴けますようお見守りくださいと唱えます。
そしてその気持ちを糧にして、願いの実現に向かって行動していく力にしていくのです。
自己啓発本によく書いてある(のかな)、自分の願いをアウトプットすることで前向きに考えていこうとするのに近いでしょうか。


実際には私は怠惰で、意志が希薄で、どうしようもない性質を帯びているのですが、そんな自分でもできる限り神社で願った時の気持ちに恥じない行動をしようと、願いに一直線でいようと思っています
私にとって神社という場所は、願望を再確認して、自分自身と向き合い、目標に向かって励む意志を頂く場所です。
もちろん、神様のお力を少しばかりお借りして、ね。



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